父は私が生まれて80日で戦争に行きましたので、私は父の顔を知りませんでした。終戦を迎え、父は私が4歳前の時、無事に戦地から戻ってきました。我が家に戻ってきた父は、川遊びをしていた私をはじめて見ても自分の息子だとわからず、近所の子に「この子は誰?」と聞いていました。あんな時代でしたので、私が生きているとは思わなかったそうです。それが、私と父との再会でした。
父が戦争でいない中、母は一人で私を厳しく育ててくれました。父が帰って来てからは、「言葉がわからないうちは身体で覚えさせ、言葉が分かるようになったら体罰はしない」というのが父の方針としてあり、幼い私が悪い事をした時には、よく柱に縛り付けられたものです。殴られたりということはありませんでしたが、悪いことは悪いことなのだと徹底的に教えられました。小学校にあがってからは、言葉でのしつけに変わり、柱に縛り付けられたこともなければ、頭より上に手を挙げられたこともありませんでしたね。
昔の人でしたから、母は自分のお母さん、つまり私のおばあさんのことをとても大切にしていました。よく祖母の家へ行きましたし、祖母が病気で臥せってからもできるかぎりのことはしていました。子供心によくやっているなぁと思ったものです。祖母が亡くなってからも、母はお墓参りや仏壇のお世話などこまめにしていました。私はそのような姿を見て育っていますので、今では自分も月に一度は実家に帰り、母と一緒に食事をし、墓参りに行きます。仏壇は家にはないですが、遺影を飾り、毎晩女房と二人でお経を唱えます。むかしから叩きこまれてきたせいか、お経をあげないと落ち着きません。 お経をあげると気持ちが休まります。孫が泊まりに来た時は、孫と一緒にお経を唱えます。こうしてまた次の世代へ受け継がれていくと良いですね。
我が家は農家でもありましたので、両親は忙しく、私をそんなに構ってはくれませんでした。一人っ子だからといって、甘やかされた記憶もありません。しかし母はたくさん私を抱き、愛情はたっぷりもらいました。母は私に愛情を与えつつも甘やかさず、バランス良く育ててくれたように思います。
中学校は片道30分、毎日自転車で通いました。あの頃は中学校では給食がなく、毎日お弁当を持っていくのですが、私がお弁当箱を洗い忘れると、母はお弁当を入れてくれませんでした。子どもですから、うっかり忘れることがよくありました。ある朝、朝ご飯を済ませて、さぁ学校に行こうと思うとお弁当がないのです。「お弁当は?」と母にたずねると「洗ってないから入れてないよ」と返される。あわててお弁当箱を洗い、詰めてもらったものです。母は、自分のことは自分でやりなさいというしつけを徹底していた人でした。おかげで「自分のことは自分で考えてする」という習慣が身についたと思います。
父の仕事は、親戚が経営する材木関係の会社と農業の兼業でした。正直、私は農業を継ぎたくなく、大学に行きたいと思っていました。私の父も、その昔は大学に行きたかったそうです。しかし、長男だから農業を継げと言われ、泣く泣く大学進学を諦めたのだと聞きました。自身の辛い経験から、息子である私の大学進学を許し、応援してくれたのです。大変有り難いことです。
小学校4年生以上の村の子どもと、25歳くらいまでの青年で結成される「若い衆」という組がありました。25歳の人に従い、一つ二つ上の子も先輩としていろいろと教わりながら、悪いことをやったら思いっきり地域全体から怒られる。そのような、昔からある良い慣習のもと、一人っ子だった私でも、地域の子どもたちと兄弟のように育てられました。完全に「村の子」として、挨拶から生活の細々したことまで教え込まれたことは、本当に良かったと思っています。
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| 2008年6月掲載 | |||||||

